
お知らせ
News「横浜元町ショッピングストリート」を横浜観光スポットとしてご紹介します。
元町ショッピングストリートの歴史は、安政6年(1859年)の横浜開港当時までさかのぼります。
横浜村は日本大通りを境に、日本人商業地区と外国人居留地区へ事業計画が決定され、1860年1月に横浜村の居住民90戸が隣接する本村に強制移転させられ「本村」を「横浜元町」に地名変更したのが元町の始まりです。
元町の居住民の大部分は農漁業に従事していましたが、明治になると山手居留地に外国人が多く住むようになり、元町通りが山手の住居地と関内を結ぶ外国人の通り道になりました。それに伴い、外国人を対象に商売を始めるお店が増えていったのが商店街の始まりです。大正初期には、西洋人を相手に花屋・洋服屋・婦人帽子屋・西洋家具屋・パン屋・カフェ・キュリオシティショップなどがエキゾチックな街を形成するに至ったのです。

大正12年(1923年)9月の関東大震災で壊滅的被害を受け、さらにその頃には各地で開港がされ、外国人居留地に存在した外国商社の多くが東京に移転したことから、輸入品の流れは各港に分散されました。輸入品を独占していた魅力を持った元町の活気は薄れ、山手住宅地に住む一部の在日居留外国人客と、東京から元町のイメージを懐かしむ僅かな日本人客の一部が元町ショッピングストリートの上客として、細々とした営業を続けることになりました。

昭和20年(1945年)5月の横浜大空襲で、元町ショッピングストリートは再び焼土と化しましたが、終戦と同じに米国進駐軍が大挙して横浜に上陸したころから、奇しくも開港当時の状況が再現されることになりました。外国人相手とした商売のノウハウを培ってきた元町ショッピングストリートは、駐留軍人とその家族の需要を満たす形で復興の緒についたのです。進駐軍の兵士だけでなく、山手や本牧に駐留する米軍の家族連れが大型乗用車に乗って訪れるようになりました。狭い道にこうした車が多く乗り入れるようになると、歩行者は店の前に立ってゆっくりウインドーを覗き込むこともできなくなるため、進駐軍の命令で車道は一方通行となりました。 街づくりに伴い、元町ショッピングストリートでは新しいブランドアイデンティティー(CI)を導入いたしました。「本物を追求する想い」を基本としながら、型にはまることのない「新しいストーリーを創造する」というチャレンジ精神。元町ショッピングストリートはブランドミッションのもとに横浜元町にしかない本物の商品とホスピタリティあるサービスをいつの時代にも追求してまいります。